身を捨ててこそ

小泉首相が2001年に総理大臣に就任した際、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と語った。その言葉の持つ憂国的使命感、悲壮感漂う響きは小泉氏のサムライ然とした風貌と相まって多くの日本人の心をとらえた。それが高い支持率のひとつの要因になったのかもしれない。

もともとは仏教や仏学の精神を詠んだ教訓の歌″道歌″に収められている旬の一節である。オリジナルは「山川の末にながるる とちがらも、身を捨ててこそ 浮かぶせもあれ。河水に 流れながるる ちから藻も 身をすててこそ 浮かぶせもあれ」というものである。

これはぬくぬくとした態度や心で事にあたってはいけない。常に困難の中に飛び出す捨て身の姿勢が本当に成功する秘訣であるという教訓だ。仏学や禅は常に平常心を保てと説く。しかし実は捨て身の勇猛心がなければ仏学は成就しないともいえるのだ。日本的な静かなる闘志がうかがわれる句である。

ずいぶん昔になるが実は私もこの言葉に心魅かれたことがある。18年も前になる。会社から5年間の米国駐在を打診された。新しい医薬品ベンチャー企業の立ち上げという新しい職務だった。前年、思うところがあり母校の講座からの助教授職のオファーを断っていた私はすでにその会社の研究所で自分なりの生涯プランをたてていた。そんな私にとって渡米は人生プランをもう一度考え直さねばならないことになる。正直いって迷いが先行していた。

そんなある日、このプロジェクトのリーダーである技術屋出身の取締役が,我々若い連中が困難なプロジェクトに向かう際の心構えとして言った言葉が、この「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」であった。迷いの中にいた私にとってこの言葉は衝撃的だった。もともと仕事のドライビングフオースを自分ではなく「人」においてきた私にとって、彼がそこまで言うのなら彼のために身を捨ててみようという気になったのである。人間には犬型と猫型があるといわれる。犬は人につき。猫は家につく。私は典型的な犬型であったわけだ。

私は部下2人と渡米した。仕事に没頭できるように全員が職場から徒歩一分のところにアパートを借りた。それから5年間、プロジェクトの目標を達成するために部下2人とともに昼夜兼行、休みなく働いたのである。

3年で目標をクリアし、さらに次のステップに進んでいた私たちに5年後信じられないニュースが伝えられた。会社が医薬分野から撤退する決定をしたというのだ。その取締役は我々に「社内的にはこのプロジェクトは失敗したことにする。それが一番上に説明しやすい。この会社は失敗した社員にもチャンスを与えてくれる良い会社だから君達は安心して帰国しなさい」といったのである。

私は納得できなかった。我々は会社が掲げた目標を達成した。しかも3年でだ。失敗はしていない。いやむしろ成功してきた。

会社は生き物。外部環境によって会社の方針が変わるのは当然である。撤退決定に何の不満もない。しかし誰の責任かと言えば、時代の流れと自社の体質を読みきれなかった上層部ではないのか。それを反省もせず、現場に責任を押し付け、目標達成できなかった事にするとは。私は一人会社を辞める決断をした。このことを部下たちに伝えると、私と異国で苦楽をともにした部下2人も自ら会社を辞めると言った。

プロジェクト終了後、それに関連していた社員が3人一緒に辞表を書いた事は当時の会社に少なからず衝撃を与えた。直属の上司や研究所長たちは自ら保身のために引き止めにかかった。しかし私の意志は堅かった。結局、私が部下を言いくるめて引き連れてやめたという、上に取っては格好の理由づけで、私が悪者にされてこの問題はかたが着いた。

私はこの件はずっと口をつぐんできたので、今でも、かつての同僚は当時を思い出して「お前だけやめればいのに、何でまた引き連れていったのだ。評判悪いぞ」と皮肉る。

私は別れ際にその取締役に「忘れているでしょうが。私は5年前のあなたがいった言葉で人生をかける決意をしました。悔いはないです」言った。その取締役は「私もすぐこの会社を辞めるつもりだから」と苦りきった顔でボソッと言った。

風の便りにその取締役が会社を定年退職したとき聞いた。私達が辞めてから5年がたっていた。さらにその会社が定款を変更して本格的に医薬品事業に参入をしたというニュースはさらにそれから5年後であった。

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