言葉は腐る

私が大学にはいったのは70年安保闘争の真最中だった。入学した年の授業はほとんど休講であり、構内はいつもあふれんばかりの学生で喧騒をきわめていた。大学自治という名のもとで機動隊はめったのことでは踏み込めない。ひとたびキャンパスにはいればまるで別世界。18歳の私は「安保反対。闘争勝利」の掛け声にすべてが許される心地よさに酔い授業をボイコットし教室を封鎖し投石を繰り返した。今思えば「角材と投石で権力に一矢を報いる」という非現実的で幼稚な論理に正直、身体を張っていた気がする。

そんな私を現実にひき戻したのは母であった。彼女は学生運動をするならまず私を捨てろ。家を出ていけ。といって泣いた。そしてあの混沌の中、将来のことなど何ひとつ頭にない入学したての私に、国民学校の高等科しか出ていない母が化学を専攻することを強く勧めたのである。

私は結局、有機合成化学を専攻し、30年たったいまでもまだこの分野で糧を得ている。若い人たちから化学を専攻した理由をきかれるたびに口ごもる。まさか母に勧められたからともいえない。友人教授が「最近の若者は夢も目的もなく学科を専攻する。困ったものだ」と愚痴るたびにこっちも顔が赤くなる。「実は俺もそうだった」と心の中でつぶやく。

父親の会社が倒産したので、母は私を育てるために北大正門のそばで小さなスナックをはじめた。以来私が北大に入学するまでの13年間、北大の学生や教師たちの変遷をカウンター越しに見てきたのである。そんな母に癌がみつかったのは3年前の秋だった。すでに手遅れでもって2ヶ月といわれた。札幌を離れて25年、渡米して11年。盆と正月しか話す機会がなかったせいだろうか。病院のベッドで母はことのほか良くしゃべった。

そんなある日、母に「なぜあの時、自分に化学を勧めたのか」をきいてみた。母は答えなかったがこんな昔話をした。60年安保闘争のころ、毎夜たくさんの学生運動の若者達が6畳程度しかない狭い母の店におしかけ、それはそれはすさまじいエネルギーだったそうだ。汚いジャンパーをきて口角アワを飛ばして議論している学生達の中に、議論に参加せずにいつも母と話しながら焼酎を飲んでいたものすごく明るい学生がいたそうだ。

ほかの学生がいくら議論をしかけても「言葉は腐る。だから好きでネエ」といって黙々と酒をのみ母と歌をうたっていたという。「あんたの大先輩だろ。唐牛さんは」と母が私にポツリと言ったとき、私は驚いた。母は唐牛健太郎のことをいっている。面識などないが函館生まれで北大の生んだ活動家であり60年の岸信介内閣当時、「バリケードを突破し国会へ」と演説し自ら警官隊の中へ突っ込んでいった全学連委員長であることを私は知っている。後日、彼が実は右翼のスパイであったという話も耳にした。しかし彼が他の多くの活動家と異なり、敗北とか挫折という耳ざわりのよい言葉で自らを慰めることなく、沖縄で日雇いをやり、オホーツクで漁師をし、生涯、行動する男を貫いたという事実の前には大した問題ではなかった。

私が30年間化学を学んで得たことは「論理や知恵から新しいものは生まれない。まず実験し、目を凝らして結果をみる。新しい事実はそこから生まれる。」である。これはいつのまにか私のライフスタイルになりこれを頼りに医薬開発に従事してきた。母が唐牛さんに幼い息子の将来のアドバイスを求めたかどうかは定かではない。しかし唐牛さんのいった「言葉は腐る」と母が18歳の私に化学の道に進み自ら新しいものを作ることを勧めたこととは無関係ではないと思うのだ。確かめる間もなく2週間たらずで母は亡くなった。(2003/2/24)

 

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