滅びの美学

ここ数年、日本に帰るたびに、日本人が美しいものや本物へのこだわりをどんどん忘れていくように思える。公園の柵やベンチはよくみると木ではなく木目のついた合成板である。朽ちる事もなく軽く便利なのだそうだ。これが技術力なのだという。しかし本当にそれで良いのだろうか。山には植林から何十年たちすっかり忘れ去られた杉やもみの木が密集している。伐採するだけ赤字になるから誰も手をつけない。間引きも手入れもされずに見捨てられた木たちは瀕死の状態である。植物は死に直面すると、最後の力を振り絞り、種の保存をはかるために、大量の花粉を放出する本能を持っている。それが、現在日本に蔓延している花粉症の原因のひとつであることをご存知だろうか。木の活躍の場を奪い、合成板を開発することで人々の健康がそこなわれていく。生活を快適にするはずの技術力で人々は不幸になっているのではないのか。

車も同じである。なぜ日本にはこうも醜い車であふれてしまったのか。サイズと乗車定員と燃費をキーワードにしてコンピューター打ち込んだらこうなりました。といわんばかりに、なんとも奇妙な醜い箱型の車ばかりが目につく。日本の美しい町並みにも、のどかな郊外の風景にも合わない。色もほとんど白と黒だ。これでは乗る楽しさを感じろというほうが無理だ。美しさと機能を両立できないのは車メーカーの責任である。

若者の車離れという現象が起きているという。しかしこれは価値観の変質だけでは説明できない。買えないし維持できないという経財状況が追い討ちをかけているのだ。終身雇用が崩れ、転職、リストラが当たり前になった現在、若者たちは人生設計を立てづらくなっている。さらに都市部の住宅事情や駐車場、車検、ローンなど若者たちには大きな負荷である。こういう状況下で車は若者たちにとってもはや必需品ではなく高価な嗜好品になってしまった。これは日本を牽引しているリーダーたちの責任である。

車の本来の役割は「移動のための道具」である。エコで不況の時代、「どう使うか」だけが重要になったわけだ。つまり、あの箱型は今の日本人のライフスタイルに合致した移動の道具として必要な形なのであろう。しかし、僕は車を単なる移動手段の工業品とみなしてはいない。車とは、昔から人間の感性と英知が作り上げてきた機能的な芸術品という面も有している。しかも、それらは絵画や彫刻とは異なり、移動手段という機能を発揮せねばならない。走って何ぼである。動けばいつかは朽ちる。そこが美術品とは異なるのだ。この滅びの美学が僕は好きだ。だから僕は美しい旧車にしか興味がない。

日本にもかつて美しい車があった。いすず117クーペ、フエアレデイZ, セリカWX,レビントレノ、スカイラインGT-R,マツダコスモスポーツ、ギャランクーペ、ホンダS8などなど。昔の若者は、いつかは手にいれるという夢に向かって一生懸命働いてきた。

私はある車のオーナーズクラブに入っているが、そのメンバーの方からこんな話をうかがった。「昔、どうしても欲しいアルミホイールがありました。でも私には手が出なかった。それで、それを買うために1年かけて、食うものも食わずこつこつと金を貯めたのです。そして、やっと念願のホイールが配達されたとき、私はうれしくてうれしくて4畳半のアパートでそれを抱いて寝ました。」

車おたくと一笑にふす事は簡単だ。しかしこの若者のほとばしる情熱はみあげたものではないか。彼の人生への向かい方は別に車に限ったことではなかったはずだ。昔の若者たちは何かの目標に向かって突進するエネルギーと強さとひたむきさを持っていたように思う。「いまどきの若者は」というような言葉は大嫌いだが。どうして若者の価値観がこんなに変質してしまったのだろう。(2011/11/25)

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

w

%s と連携中