什の掟

その昔、陸奥会津藩の藩士の子弟は十歳になると、藩校日新館に通った。六歳から九歳までの会津藩士の男子には、入学前に、会津武士の“心構え”を身につけさせるため、「什(じゅう)」という十人前後のグループを作らせていた。ある種の幼児教育の場である。毎日順番にグループの家に集まり、そこで、リーダーである什長(じゅうちょう)が「話」をする。

什長が申し聞かせる「話」のいくつかは以下のようなものだった。

  • 一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
  • 一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
  • 一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
  • 一、弱い者をいじめてはなりませぬ

そして、たとえ子供たちがいかように言い訳しようと、最後に必ず、問答無用。「ならぬことはならぬものです」と、厳しく教戒したのだ。これが、「什の掟」と呼ばれるものである。会津の子供たちのこのような教育環境が、他の地方の人からは、なかなか理解できない 会津の「頑固者」 を育てたといわれている。

決め事を簡単に破り、厚顔で無理を通す恥を知らない韓国人には、この「ならぬことはならぬ」心構えは到底理解できないだろう。今こそ日本政府はこの会津藩の「什の掟」の精神をもって韓国徴用工問題に臨むべきである。

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待機組

僕がサラリーマンだったとき、どうしても昇進できない人たちがいた。毎年査定時期になると決まって最低Eランクのグループになる常連組だ。Eを取って皮肉っぽくエリートと揶揄されていた。俗に万年ヒラという一群である。かれらは仕事ができないわけではなかった。東大や北大出身の博士号を持つ秀才もいたし、職人肌の優れた技術者もいた。だがどうしても課長にはなれなかった。なぜなのか。それはひとつ上の職務、部下を有する課長職に求められる力が不足していたからだ。プレゼンテーション法、コミュニケーション法、報告書作成技術、交渉術、説得術、部下掌握術など、どれをとってもヒラのときとは異種の力が要求される。国会議員では当選を重ねるとその能力にかかわらず入閣待機組という表現が使われる、能力とは関係なしで年序列で入閣できるといいうことである。しかし合理性を希求する企業ではどれだけ長く会社にいても「課長待機組」とはならない。今、巷で桜田祭として話題の桜田義孝五輪担当相も長らく入閣待機組であったようだ。

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当選7回でもなかなかなれなかったのだからやはりそれなりに資質に問題があることは皆さんご存知だったのだろうが、今回、派閥間の調整でやっと入閣したわけである。基本的に日本の大臣の場合、優秀な官僚がしっかりバックアップしてくれるから、早い話、官僚が事前に手渡す文章の字さえよめれば誰でもなれる。はずなのだが、この桜田氏はそれもできない無能だった。1500億円を1500円と読む彼の答弁を聞いていると、やはり答弁書に書かれていた「もし」を「もしもし」と読んだ田中直紀防衛大臣を彷彿させた。人のあら捜ししかできない野党の恰好の「えじき」になっているわけだが。呆れを通り越して何か妙に切ない気持ちになるのは僕だけだろうか。

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怨と無恥

何とも困った話である。今回勝訴した4人の原告は「元徴用工」と報じられているが、4人は「徴用」ではなく「募集」や「官斡旋」で日本に来た。

このうち2人は募集広告を見て自ら応募。正規の面接試験を受けて採用された。つまり彼らは自からの意志で徴用工になった。正確に言えば徴用工ではないことは彼ら自身が一番わかっているはずだ。

さらに戦後の両国関係発展の礎の「日韓請求権・経済協力協定」(1965年)で政治的解決が約束された。徴用工問題はこれに適用されないという屁理屈はいくらでもこねられる。

現に韓国の裁判所は何とも奇妙な理屈で訴えを認めた。しかしである。今頃、損害賠償を求めるって、国として恥ずかしくないのか。

自分で決めたことに責任を持ちなさい。約束と時間は守りなさい。それを破ることは「恥ずべきこと」と僕らは教えられた。これが日本の「恥の文化」なのだが、韓国にはそれがまったくない。あるのは「怨の文化」。韓国旅行客のマナー違反や非常識行動はすでに多くの人たちが指摘しているが、今回の騒動で韓国の「無恥の文化」が明らかになった。僕はこの隣国を絶対に好きになれない。

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日本的なるもの

海外出張から帰るとまず真っ先に行うことがある。上野で新幹線に乗る前に駅構内の「いろり庵」という蕎麦屋でそばを食すことだ。僕にとってはこれは胃袋をリセットしスイッチを日本に切り替える必要なセレモニーになっている。

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実は、食以外に日本を実感する一瞬がある。成田空港の京成スカイライナーのホームで、待ち構える車内清掃員がホームに入ってくる列車に向かって必ず深々と一礼する光景である。彼はいったい何にたいして敬意をあらわしているのか、聞いてみたい衝動にかられる。

新幹線をおりて僕の住む街に着くと、下校途中の学童がたくさん歩いている。そして、信号機のある横断歩道を渡りきった学童は必ず一度振り返り、道路に向かって頭をさげる。信号が青なのにである。学校のおしえなのだろうが、教師は何に対してありがとうと言えと教えているのだろう。

列車と横断歩道。かなり奥が深い。ともあれ、欧米では絶対に見ることができない光景だ。こういう不条理だが心が温まる光景を見るたびに、「ああ日本に帰ってきたんだ」としみじみ思うのである。

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LGBT

自民党のある女性議員がL・G・B・Tは生産性がない。と言って多くの非難を浴びた。新潮はこの世間の非難に対して、この議員の言うことはそんなに的外れかと言いう特集本を出した。これに対しまた非難轟轟。

どうもこの背景には米国の富裕層が持つ「ホワイト・ギルティ」に似た、世界のメジャー「良い人たち」がまとう正義のマント「マイノリティに対する過度の人権擁護」があるようにも思う。そこで少し冷静に科学的に考えてみる。

もともと生物の行動の根幹は「生存」と「繁殖」にある。生殖と恋愛は別としたのは人間だけである。つまり人間の本来の生物としての本能はすでに変容しているわけで、生物学的見地から人間界のL・G・B・Tを生産性がないという言葉で否定することはもはや陳腐でしかない。

しかし、この議員が生産性という言葉を生産能力と同義で使用しているのなら、僕はこの議員の発言に違和感はない。異性同士の結婚で子供を作らないカップルもいる。「かれらも生産性がないのか」という批判もあるが、かれらは生産能力を持ちながらそれを行使しないだけであり、生産性がないわけではない。

もちろん生産性という意味を生殖ではなく種保存という広い意味で使ったのであれば、この議員の発言は正しくない。同性婚でもいろいろな方法で子供を持ち育てることはできるし、子供が授からない異性婚でも現在では科学の進歩で子供を授かることができる場合もある。

これこそが本来の本能を変容させた人間が生存繁殖、種保存に対して導いたひとつの解決策なのだと思う。この議員の言葉を前後の文脈を無視して科学的にとらえるとこうなる。だが、実は彼女が言いたいことは、別にあると僕は感じている。それはまた別の機会に。

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善戦か?

今回の自民党総裁選で、マスコミ、特にテレ朝は石破は善戦したと報道している。皆さんは2012年の総裁選をもうお忘れだろうか?1回目投票で石破氏は199票。安部氏は141票で石破大きくリード。決選投票でわずか20票差で安部氏がきわどく逆転勝利したことを。こういうのを「石破善戦、惜敗」というのだ。

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今回はダブルスコア以上で安部の圧勝である。石破氏はこの6年間、全国各地の党員を回る、草の根作戦もできたし、安部の失政に議員の囲い込みもできたはずだ。加えて最近の3年間は要職にもつかず下野状態だった。にもかかわらず十分な時間がありながら支持を増やせなかった。

これが石破氏の限界となぜ誰も言わないのだろう。もう彼に次はない。安部政権を弱体化させようとするマスコミの印象操作ここに極まれりである。マスコミ、特にテレビはもっと中立であるべきと最近ひしひしと感じる。

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ソウルの女王

ソウルの女王と言われた、アレサ・フランクリンがなくなった。数々の素晴らしい楽曲があるけれど、僕が一番に思いだすのは、映画「ブルース・ブラザース」の中で、ソウルフード・カフェでジェイクとエルウッドがマット・マーフィーをバンドに連れ戻そうとしたとき、夫に対し、妻のアレサ・フランクリンが猛抗議して[Think!]を歌うシーン大。今でいうフラッシュ・モブにも似た名シーン。アレサの歌唱力とリズム感には圧倒された。

 

 

「ブルース・ブラザース」を成功させた立役者の一人である。奇しくも、夫役のギタリスト、マット・マーフィーも6月に亡くなった。二人のレジェンドに合掌。

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